願かけ絵馬の考現学
~第六十一講~

願かけ絵馬の考現学

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[願いごと]

大願成就

脱出できますように

弘前市大字葦町○○○-○ 
遠矢瑠璃子 
[石巻市 羽黒鳥屋神社]

「これの何がおもしろいのか?」、いや、もとい、「これのどういう部分に考証対象としての価値を見出したのか?」と問われると、言葉に対する感覚の違いという他ないのであるが…。

「大願成就」は、ほんとうにそれらしい、大きな文字で堂々と書いてある。
で、その横に、説明書き程度に小さく脱出ウンヌンと書いてあるわけだ。

普通、大願成就などという言葉は、非常に前向きで大きな願い事が叶うようにという時に使う言葉だと、筆者などは思っている。
良くは知らないが仏教のほうでは、仏様が衆生を救済しようとする願いのことを大願と称するらしいし、普通の人の感覚から言っても、やっぱり何か良いことを希望する時に言う言葉、プラス思考で述べる言葉だと思うのである。

だが、この願主の瑠璃子さん、「脱出できますように」と言う。
瑠璃子さんは、何か良からぬ環境下に置かれており、そこから抜け出したい、ということであろう。
もちろん、それが前向きでないとか、まして後ろ向きだとかは言わないが、いわばマイナス状態からゼロをめざしたいというニュアンスがつきまとうのである。

前向きか後ろ向きかはともかく、「大願」というような大仰な言葉を使うのであるから、単に生活が悪いモードに入ったとか、ちょっと嫌なことが続いているとかいう程度の、生やさしい事態ではないようだ。
金に目が眩んで、今はやりの「振り込め」詐欺団か何かに入っては見たものの、あまりの悪行ぶりに心が痛み、足抜けを図りたいといった状況であろうか?
あるいは、意地悪な姑さんとの闘争に疲れ果て、頼りにならぬ亭主にも愛想が尽きて、もう離婚したい、その家を出たい、といった事態なのであろうか?
どちらにしても、やっぱり「大願」というのは変だ。
「悲願」も違うだろうが、「大願」はもっと違う。

瑠璃子さんはいったいどのような境遇に置かれて苦悶しているのか、非常に気になる次第である。

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