願かけ絵馬の考現学
~第八十六講~

願かけ絵馬の考現学

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二人にとって良いご縁の

赤ちゃんが授かりますように。

今中輝義 咲月 
[奈良県明日香村 飛鳥坐神社]

判らない。
どう考えても、判らない。
この今中さんご夫婦にとっての「良いご縁の」赤ちゃんとは、いったいどういう存在なのだろう?

今中という姓は同じというか、共用しているし、こうして仲良く連名で絵馬を奉納しているのだから、このご両人が不倫関係であるとか、その他の面倒な関係であるという可能性は極めて低い。
そういうご夫婦から生まれる赤ちゃんなら、縁がどうのこうのという必要などないはずである。

それとも、ここでご両人の言う「授かる」というのは、世間一般で言うところの、「赤ちゃんは天からの授かりもの」といった比喩の意味ではなく、もっとストレートな意味なのだろうか。
つまり、養子縁組で赤ちゃんをもらうのだろうか。
それにしたって、赤ちゃんを養子でもらうなら、実の親と養父母とは、お互いに必要以上の素性を明かさないものだろうし、以後も関係を持たないのが普通ではないのか。
だったら、その縁が良いとか悪いとかも、関係ないことだろう。
夫婦のどちらかの生殖能力に欠陥があって、精子か卵子の提供を受けるというような場合だって、同様だろう。

また、養子でもらった子の成長に伴って良い親子関係が築けるようにというなら、そういう願いを書けばよいはずだ。
赤ちゃんのうちから縁だの親子の関係だの問題にしても仕方ないだろう。もし、そういう心配をしているのだとしたら、子育てがうまく行くかどうかを「縁」のせいにするような雰囲気もあって、この里親には少々危惧が持たれるという他ない。

さらに、たとえば自分たちは子宝に恵まれず、子だくさんの妹夫婦の子を一人養子にもらうとか、事故か何かで亡くなった兄夫婦の子を引き取るとかいう場合なら、お互いの関係、つまり縁は最初から分かっているはずである。

これから生まれてくる、自分たちの実の子である赤ちゃんに対して、その縁がどうのこうのと言うのは、まったくもって意味不明である。
生まれてからの親子関係のことを言っているなら、それを良いものにするのは自分たちの役割だろう。
生まれもしない先から、将来の家庭内暴力でも恐れているのだとしたら、あまりに情けないと言わざるを得ない。

それとも、この今中さんご夫婦は、次の願主のように単に元気で健康な赤ちゃんをという願いを、あんなふうに書いてしまっただけなのか。

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立派な子宝に

恵まれますように。

(願主名なし)
[久留米市 日吉神社 摂社産霊宮]

「立派な」子宝というのも妙な言い方であるが、こちらはよく理解できる。
しかし、どう考えても「縁」は変である。
授かった赤ちゃんが、この産霊宮に願いをかけた願主ふうに言う「立派な子宝」でなかったら、縁を切るとでもいうのかしら。

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紛らわしいが、大きいのが
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