願かけ絵馬の考現学
~第七十八講~

願かけ絵馬の考現学

ホームへのリンクボタン 口上ページへのリンクボタン 読前の注意ページへのリンクボタン 目次ページへのリンクボタン
絵馬のアイコン写真

[ねがい]

散歩道の
田んぼ道の浄化
尚、皆さまの幸福をお祈り致します。

私の家族の幸福と健康をお願い致します。
ありがとうございます。

↓お参りさせていただきます。
車の浄化
田中佐代子
佐賀 ××× う ××××

車の浄化
田中亨
佐賀 ××× か ××××

犬の浄化
サブチャン
犬のトクちゃん
犬のハッピー
猫のチエちゃん
浄化

××郡▽▽▽町白壁××-×××× 
藤村昭雄・志信 
[久留米市 水天宮]

多少、解説が必要である。
車2台と、犬・猫についての願いは、それぞれ線で囲んである。
矢印は、WEBではうまく表現できないので、このようにしたが、田中佐代子さんの車を囲んだ線から引いて、「お参りさせていただきます」のほうに向いている。
要するに、藤村昭雄・志信なる、おそらくはご夫婦が、自分たちの願いを掛けにやって来て、知り合いの人の自動車のことなども、お願いしてあげている訳だ。
言ってしまえば、それだけのことなのだが…。

浄化………。
無論、この言葉自体には、何ら不穏なところも、怪しい点もない。
だが、こうして浄化、浄化と連発されると、話は違ってくる。
とくに、散歩道や田んぼ道、そして車ばかりか、犬のトクちゃんや猫のチエちゃんまで浄化したいということになると、読む者は、一歩二歩と後ずさってしまうのである。

車の浄化と言えば、排ガス浄化などを普通は連想するが、もちろん、この願主たちが言うのは、そういう浄化ではない。
散歩道の浄化というのも、単に散歩道のお掃除をしましょうというのではない。
では、どういう浄化なのか。

浄化というのは、某辞書によれば、汚れを取り除いてきれいにすることであるという。
だとすれば、彼らの浄化祈願の対象となっている散歩道や車や猫や犬は、いったいどういうものに汚されているのであろうか。
知りたいようでもあり、知りたくないようでもある。

また、広辞苑によると、浄化とは宗教用語としては「卑俗な状態を神聖な状態に転化すること」、あるいはカタルシスの訳語であるらしい。
カタルシスとは、罪から精神を浄化することや、悲劇を見て涙をながしたり恐怖を味わったりすることで心の中のしこりを排泄し、清めること、といった意味があるという。
何だか、訳がわからなくなってきたが…。

つまり、願主たちは、散歩道や田んぼ道、車、犬のトクちゃんや猫のチエちゃんたちが、卑俗で、罪があるものだというふうに理解しているのか。
そりゃあ、散歩道や田んぼ道、車、犬のトクちゃんや猫のチエちゃんたちが(相変わらずくどいか)、神聖なものだとは思わないが、だからと言って、それら、彼らが卑俗だとか、罪があるとかいうことにもなるまいと思うのだが。

願かけ絵馬には、時々、こういう「浄化系」とでも呼びたくなるような人々が奉納したものが散見されるのであって、本講座でも、第四十二講などはその典型である。
この人々の特徴のひとつに、絵馬を奉納する神社の神様の得意分野など一切考慮しないということがある。
安産を祈願する神様だろうが、金運を願う神様だろうが、恋愛成就の神様だろうが、まったく関知しない。
そして、一方的に自分たちの浄化思想を押し付けるのだ。
通常、こうした浄化系の人々が浄化を意図するのは、宝石・高級時計・貴金属などが多いのであるが、彼らがこうだと決めれば何でも浄化の対象になってしまうようである。

さて、ここで生じるもうひとつの疑問は、車の浄化をお願いされてしまった田中さんたちも、同じ浄化思想の信奉者なのかという点である。
まあ、そうであっても、そうでなくても、勝手にお願いされるだけだから実害はなさそうではあるが、筆者ならきっぱりとご辞退申し上げたい。
他人の車を勝手に、卑俗だ、罪があるなどと決め付けてほしくない訳である。

第七十七講 目 次 第七十九講
紛らわしいが、大きいのが
各ページへのリンクボタン

ホームへのリンクボタン

「あんぐりドッキリがっくり」アニメ

口上ページへのリンクボタン

「考現学」アニメ

読前の注意ページへのリンクボタン

「あんぐり考現学」アニメ

目次ページへのリンクボタン

ホームへのリンクボタン 口上ページへのリンクボタン 読前の注意ページへのリンクボタン 目次ページへのリンクボタン

管理人への苦情・ご意見など、ご連絡は
連絡フォームから。

【リンクサイト】
別に何がどう、という訳ではないが…。

WSサービス
個人の文章作成を支援してくれるらしい。

日本語いちゃもん帳
偏屈オヤジが日本語の乱れを激しく糾弾している。