願かけ絵馬の考現学
~第六十五講~

願かけ絵馬の考現学

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絵馬のアイコン写真

[願いごと]
希望大学に合格できますように。

[御住所]
和歌山市雑賀崎○○○番地

[御芳名]
高橋浩介

[希望校]
東京理科大学
立命館大学
関西大学

[和歌山市 和歌浦天満宮]

少し説明しないと判らない。
願文自体は、採集するほどの価値はないのである。
要するに、この和歌浦天満宮では、願掛けする人の便宜を図って(というつもりであろう)、絵馬の裏側に枠組みというか、罫線というか、項目ごとの記入欄を設けた表組みのようなものを描いているのである。

で、その記入項目というのが、[願いごと]とか[御住所]とかいうもので、そういう項目名が最初から書いてある。
しかし、神様に願い事をする絵馬に[御住所]とか[御芳名]とか、願主に「御」の字をつけたり、相手の名前の尊敬語である「芳名」を使ったりするのは、いかがなものか。
それはまあ、神社にすれば、絵馬を奉納してくれる人は、有り体に言って「客」には違いないだろう。
しかし、それでは神様に対して失礼にあたるというものだろうし、あまりに正直過ぎるように思うのだが。何やら神様の値打ちも落ちてしまう気もするし。

「いやいや、神様と言うてもアンタ、私ら神社の者とは一心同体ですから。大切なお客さんに対してこそ、失礼があったらいけません」

と、確信を持ってそうしてあるのなら良いのだが、筆者には単に敬語の乱れの一種としか見えない。つまり、敬語を使う対象と直接の対話相手、自分との相互関係が理解できていないのである。
少なくとも余計なお世話、失礼ながら敢えて言えば、神社側の浅慮としか思えない。
それが証拠に、他の願文では、妙なことになっているのだ。

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[願いごと]
勉強は自分で頑張るので
受ける試験に合格できますように。

[御住所]
和歌山市栗栖○○○

[御芳名]
濱田耕太郎

[希望校]
資格
 行政書士
 FP
 宅建

[和歌山市 和歌浦天満宮]

学校合格祈願ではなく、資格試験の合格祈願というわけで、わざわざ「資格」と注意書きしてある。
大切な「客」に配慮をしようと言うのなら、この濱田さんのように、学校合格祈願以外の「客」にも配慮して、幾通りかの絵馬を用意しておくべきであろう。そうなるといよいよ絵馬の種類が煩雑になって、始末に負えなくなるのである。

もっとも、この濱田さんの願文も、結構、妙と言えば妙なのだが。「勉強は自分で頑張る」のは当たり前であって、そんなことを合格祈願で断ったり宣言したりする必要はない。まして「~ので」と理由のように言うのはさらにおかしいのである。
どっちもどっちと言ったら、叱られるだろうか。

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