願かけ絵馬の考現学
~第四十六講~

願かけ絵馬の考現学

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吉野浩二郎
吉野浩康
吉野邦浩
吉野奈緒子
吉野節子
の五体が救われて
いきますように
お願い申し上げます。

吉野節子にかかわった
良い人も救われますように
お願い申し上げます。

(願主名なし)
[新潟市 白山神社]

…少々、不気味である。

通常、日本語で「五体」と言えば、ふたつの意味がある。
ひとつは、頭・首・胸・手・足とか、頭・両手・両足とか、人体を構成する五つの部分、つまりは身体全体のことを言う場合である。
書道の五つの書体を指す場合もあるようだが、まあ、それはこの際、除外して問題ないはずだ。
早い話が、奉納絵馬関係で、

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健康で
元気で
五体満足に
生まれて
きますように。

新津市 
佐藤 恵美 
[新潟市 白山神社]

のように、使われるケースである。
まもなく母となる人の、誠に健全、かつ、理解しやすい願いであると言えよう。
言うまでもなかろうが、乙武洋匡氏の著書『五体不満足』も、これを踏まえたネーミングである。

そして、もうひとつの「五体」は、「五」を文字通りの数詞、つまり純粋に数を表す言葉として使う場合であろう。
単なる数なのだが、それに「体」とつくと、話はにわかに不穏な印象を帯びてくる。
人を数えるのなら、「五人」と書けば良さそうなものであるが、この願主はそうしない。

普通、人のことを「~体」と数えるのは、まあつまり、その対象がすでに生存していない場合が多い訳である。
早い話が「ご遺体」は、一体、二体と数える訳だ。
本試料の場合もそうだとすると、この吉野さんらは亡くなった方たちであろうか。
もちろん、あり得る話ではある。五人いっしょに亡くなったのか、先祖代々の方々のことなのか判らないが。

しかし、亡くなった人たちの冥福を祈るなら、もう少し、別の言い方があろう。

「五体が救われていきますように」

とは、あまりに常軌を逸した表現ではないか。
仏教関係なら「成仏」といった言い方になろうし、そうでなくても、救われるのはだいたいが魂などであって、亡くなった人の「体」が救われるようにというのは、かなり変である。
あるいは、この願主か、この願主が属するグループでは、亡くなった人の「体」が救われないケースというのも想定していて、それはたとえば遺体が悪魔に喰われるといったような話なのか。
うう、気持ちが悪い、二通りの意味で。願主名くらいあれば、もう少し、まっとうな考察もできるのだが。

しかも、最後の部分があるから、余計に訳がわからない。
吉野節子さんが亡くなった方なら、

「吉野節子にかかわった良い人も救われますように」

とは、どういう意味だろう。
吉野節子さんに、生前、関係のあった人たちのうち「良い人」だけを救ってやってくれ、というのであろうか。あるいは、「吉野節子にかかわった」人たちは全員「良い人」で、彼らもお願いする、という意味か。
それとも、これは単に具体的な人名を出すのを憚って、そういう言い回しにしただけなのであろうか。

何だか、祟りでもありそうなので、この考察はここらで取り止めようかと思ったが、もうひとつの解釈もあるのに気が付いた。
要するに、この願主は吉野節子さんあたりで、吉野さんたちは全員、まあ存命ではあるが、このところ皆健康状態がすぐれないし悪化の気配もある、という状況だ。
で、節子さんは、そういう場合は、こういう思考形態に陥る傾向の人なのである。
どっちにしても、気の滅入る考察となったようである。

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