願かけ絵馬の考現学
〜第三十一講〜








 
聡子へ
30になったら
結婚するらしい。
いい人でありますように。
        西井家 
        山田家 

[赤穂市 大石神社
  毎々、筆者が指摘するごとく、願かけ絵馬の願文など、他人に見せるために書くものではない。
神様にさえ理解してもらえば良いのだし、さらに言えば、自分でわかっていれば本人は満足なのだ。
だが、そういう風に言い切ってしまうと、では自分の心の中で願っていればいいのだということになり、そもそも奉納絵馬で願かけするという体裁が、意味を失いかねない。
…このあたり、理屈に走り過ぎているというご指摘があれば、首肯せざるを得ないのであるが、論旨の展開上、さような指摘には敢えて目をつぶる。
で、本サンプルの願文である。
単純そうに見えて、これほど意味不明の願文も珍しい。
だいたい願主は、誰なのか。
西井・山田両家連名の形になっているが、では、この聡子サンはどちらの家の人なのか。
そもそも結婚するのは、聡子サンなのか。
「らしい」という部分に多少の危惧を感じないでもないが、一応、そう読んでみよう。
誰だか知らないが、この願主は聡子さんとは離れて暮らしていて、聡子さんが30歳になったら結婚するということを、風の頼りに聞いたわけだ。
「らしい」というのは、「結婚するらしいが…」「結婚すると、そう聞いたが…」と言う意味合いである。
それが、舌足らずになってしまったのだ。
今風に表現すると、「らしいね」で文句なしだろう。
で、相手が良い人だといいねと、願っている。
全体が聡子さんへの呼びかけになっているわけだ。
それなら、話の筋は一応、通る。

…と思ったが、では、西井家、山田家というのは何なのだ?
まるで、筋など通っていないではないか。
ならば発想を変えて、「らしい」をそのままに受け取ってみよう。
誰かが30歳になったら結婚することを、願主が聡子サンに報告しているという風に読むのである。
言うところの、伝聞による報告である。
法廷では、伝聞された内容は証拠能力に疑義ありとされるようだが、願かけ界では何ら問題ない。
結婚するご当人の名前が出てこないというところに、相当無理な印象があるが、まったく不可能な解釈でもあるまい。
聡子サンは、今度結婚予定のご当人と今は別れ別れに暮らす母親か何か、願主はその元夫といった関係になるわけだ。
こうなると多少のドラマ性も漂ってきて、なかなか読ませる展開ではないか。

…だがしかし、やっぱり西井家、山田家というのが変である。
これでは解のない方程式も同然、どこまで行っても堂々巡りだ。
頭が痛い。
この際、西井・山田両家に対しては、かようなややこしい真似は厳に慎むよう、強く申し入れなければなるまい。
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