願かけ絵馬の考現学
〜第二十九講〜








 

(判読不能)

第二十七講の参考写真

瀬川 敦子 
[大阪市 一心寺]
  判読不能のサンプルなど採取するのは全体どういう料簡だと、ご不審の向きもあろう。
しかし、考察は何も願文内容そのものからしかできない、ということはないのである。
とくに本件のような、非常な特徴を有する場合は…。
ただ、この考察は現物をご覧いただかないと解説は難しいため、本講座の原則に反し、写真を資料として掲示する。
ご覧いただくと一目瞭然だが、奉納シャモジの全面に細かな文字でびっしりと願文が記してある。
しかも、同じ願主による、おそらく文意も似たような、ひょっとすると全部同じかも知れないような願文のシャモジが、数え切れないくらいたくさんあるのだ。
ガクモン的に貴重なサンプルを求め、筆者は本田出雲守の墓所にある膨大な数の奉納シャモジを概観していったわけであるが、その作業の実感から推察したところ、ざっと全体の四半分、いやひょっとすると半分近い部分が、この同じ願主による判読不能のシャモジではないかとさえ思えた。
もちろん、正確な数が知りたいなら、奉納されたシャモジを全部はずして数えればよいわけである。
だが、そんなことをしたらお寺の人から注意を受けること必定であるし、第一、とてもそんな気になれない。
面倒だということもあるが、もっと別の理由からだ。
というのも、この一群のシャモジの状態を見ると、風雨と紫外線に曝されてシラッ茶けたものから、まだそれでご飯がよそえそうなほど新しいものまで様々。
相当な長期にわたって奉納され続けた、いや多分、今も奉納され続けているらしいことがわかるのである。
しかも、判読不能と書いたが、注意して見ると、ところどころ辛うじて読める部分のあるものから、全体がミミズののたくったようにしか見えず願主名さえ読めないものまであって、それはどうも書いた人の心身の状況変化を表しているようでもあるのだ。
もはや、鬼気迫る、という他ない状況であって、自分(筆者のことだが)はこういうことをしていて良いのであろうかと、うそ寒い心境にさえなってくるのである。
真面目な話、この願主は往生間際に改心したごとき本田クンになど頼っていないで、一刻も早く、しかるべき医療機関に相談すべきである。
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