願かけ絵馬の考現学
~第九十九講~

願かけ絵馬の考現学

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ありがとうございます。
ありがとうございます。

無限の無限の
輝きがいっぱい。
ありがとうございます。

無限の無限の
幸せがいっぱい。
ありがとうございます。

佐藤 啓雄 
[新潟市 白山神社]

達筆である。
願主は、それ相応の年齢の方に違いない。
そして、この異常なほどの喜びの表現、感謝の言葉は、単に、何か良いことがあったから手放しで喜んでいるとか感謝しているとかいうのではない。
もちろん、そう断言できる根拠はこの絵馬から読み取れないが、筆者の長年の研究観察から言って、断じてこの判断は間違いではないと確信する。
時々、見かける「感謝系」の願主である。

「感謝系」と言っても、今にわかに思いついた言葉であって、一般に使われる言葉ではないし、明確な定義がある訳でもない。
しかし、そうとでも言うほかない、こういう願文が時々あるのである。
たとえば、こういうのもあった。

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世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
大国主様ありがとうございます
すべてはよくなった すべては完ぺき
すべては欠けたるものなし 大成就した!!

大川佐和子 
[奈良市 春日大社大黒社]

世界人類や日本の平和、天命の完う(まっとう)を願ってはいるが、この願文の本旨は後半にある。
すべてが理想通りになった、願いがかなった、ありがたいと言い、大黒社の祭神である大国主命に感謝しているのである。
思うに、冒頭の願文の願主もこの大黒社への奉納願主も、願いが叶った、感謝しているという言い方で、実はそうなってほしいという願いを訴えているのではなかろうか。

言霊信仰、とでも言うのであろうか。
素直に願いを書くのではなく、それがすでに叶った、うれしいと言い切ってしまうことで、その実現を、より強く求めている。
言わば、神様に対して、願いの成就を強要しているのである。
他人に何かを強要するのは刑法に抵触するらしいが、神様相手なら、そんな人間界のルールなど関係ないのである。
なぜ、そんなことが言えるのだ?と問われると、合理的な説明はできないのだが。

しかし、こうした異常なまでの感謝の言葉の洪水からは、それがまともな、文字通りの感謝とは思えないものを感じさせるのである。
願主の方々が、言霊信仰だと意識しているかどうかは別として、そういう意味合いでこうした願文をしたためているならば、これは「感謝系」というより「言霊系」というほうが正しいか。

ただ、こうした言霊系の願主(勝手にその存在を既成事実化しているが)の人たちには、妙に偏執的なところがあるという点に、多少の危惧を感じないではなく、またその点で、単純に言霊系とのみ言い切れない可能性もあるのである。

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